戦中、戦後の志摩半島の村は、日常の食べ物も貧しいものでした。ただ、都会から集団で疎開した子どもたちと違って、貧しくとも三食きちんと食べることは出来ました。それに、日本のどこの村でもそうだったのだと思いますが、家には味噌小屋があって、味噌を仕込んだ大きな樽が三つぐらい並んでいて、夏には蠅が卵を産みに来て、味噌の一番上には大抵、白い幼虫がたくさん浮かんでいました。

味噌汁にもその白い幼虫が煮えて浮かんでいましたが、当時の子どもたちはそんなものを気にせずに味噌汁をいただいていましたよ。

とにかく、食生活は貧しかったのですが、当時の農村の人たちは大人も子どもも、味噌をつけて野菜を美味しく食べることを知っていました。私も、親から言われなくても、海から帰ったとき、小学校から帰ったとき、屋敷の中の畑からいろいろな野菜を取ってきては味噌を着けて生のままご飯のおかずにしました。

生のまま、味噌を着けて食べたやさいは結構あります。

根菜では大根、人参。そして、茄子、胡瓜もありました。腹の減った子どもの舌には何でも美味しかったものです。

幼少の頃にそういう習慣があったものですから、今も、季節になるとスーパーで見る生野菜に味噌を着けて食べたくなります。そして、どれもやはり美味しいのです。

新生姜が出回る頃になると、白い肌の新生姜。端のほうに紅を差したような白い新生姜は、薄く切らなくてもそのまま味噌を着けてかぶりつけば、年老いた身でも食が進みます。

それと、辣韭も味噌を着けて食べると美味しいですね。スーパーでは、漬けるために大きな袋に入ったものしか売っていませんが、その横に、沖縄産の島辣韭という茎もついた小袋入りが150円ぐらいで売っており、それをきれいに洗って、茎もまだ萎れていない部分は残して、昼ごはん、夕ご飯の時に味噌を着けて、2~3本ぐらいずつ味わいます。

そして、時々辛~~~いのにも当たりますが、今の季節の獅子唐。これは味噌無しでも食べられますが、ヘタを取って味噌を着けると、それは美味しいおかずになります。

戦中、戦後、日本人は生き残るために手近にあるさまざまな食品を出来るだけ手間暇かけずに食べる知恵を持っていたのですね。そのかわり、栄養分としてはかなり偏っていたのでしょう。当時の子どもは私を含め、余り十分には発育出来なかったようです。

今の小学生、中学生と比べて、当時の子どもたちは平均的に身長も体重も足りなかったに思います。